行き詰ってはダイスを転がす毎日です。常に初陣。
2012年04月29日 (日) | 編集 |



何回がんばっても「たなくじ」が上手く撮れない今日この頃。

それでもたなくじチャレンジができるぐらい、気持ちに余裕が出てきました。

弟が急逝したのが今年の年明け早々。

葬儀と初七日を終えた翌日から、悲しみに暮れる間もなく役所手続きに追われる嫁ちゃんと母に代って、私は葬儀関係者への支払処理と、満中陰志(香典返し)ギフトの発注手配に追われました。

そこから四十九日の忌明けまでは、一週間毎に弟家族の家(車で30分の場所)へ通って中陰法要に参加します。

その間に母が心臓の手術の為、入院。

これは年末から予定していたもので、アブレーションと呼ばれる動脈カテーテル術です。

長年悩まされていた不整脈の原因になっている部分を焼くという、簡単な手術だと聞いていたのですが、1週間以内に退院できるはずが、切開した動脈からの出血漏れが止まらず10日間の長逗留に。

母親が入院していた間、何よりも私を脅かしたのは、初めて見る「母の鬱状態」でした。

※孫と前日交わした約束を憶えていない。

※退院日は3日後なのに明日だと言い張る。

※「どれでもいい」「なんでもいい」と、些細な選択ができない。

※「もう、私には何かを遺してやれる子供がいない…」と、娘の私にこぼす。


30歳で夫を亡くしてからというもの躍起になって働き続けた毎日の中で、心の拠り所としていた息子を突然亡くし、それでも気丈に店を開けていた母にとって、全く刺激の無い10日間のベッド生活は長すぎたのです。

病院へ見舞いに通う毎日の中で、おそらくこれは息子の急逝直後だというのに痛みを伴う長時間の局所麻酔手術を受けたことによって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のような状態になっているのかもしれないと思いました。

こんな毎日に胃を壊して過ごしながら、近所のママファイターじろう氏に愚痴をこぼしたところ

「だけど弟を亡くしたばかりで、つらいのはKansaiも同じやん」

という優しい言葉を賜った瞬間、

「ああ私、無理してサポート役に徹しなくてもいいんだ」

と、自分を取り戻すことができました。

母が退院して理容師に復帰してからの私は、なるべく店に通って母の様子を見ながら手伝いに追われる日々でしたが、現場復帰してからの母が見違えるように元気になったので安心できるようになりました。

そんなこんなで「2月も半ば過ぎか…そろそろ四十九日になるねえ」とダンナと話していた早朝、今度は嫁ちゃんから悲痛な声で助けを請う電話が。

嫁ちゃんの母親が酷い腹痛を訴え、状況が予断を許さないということで私達家族も病院に駆けつけました。

嫁ちゃんの親御さんは、私と同じくお母さん一人です。嫁ちゃんには姉が2人いますが、ぶっちゃけ頼れる存在ではありません。

その後、検査によってガンであった事が判明(本人に告知済み)しましたが、専門病院に転院して手術を終え、今は元気に過ごしておられます。

これをきっかけに嫁ちゃんは実家に身を寄せることに決めました。

嫁ちゃんの実家は私の母の店の近所なので、孫である私の甥っ子を預かることもでき、ベストな選択だと思います。

私は引っ越しの荷物の梱包手伝いに通いながら、嫁ちゃんに

「なんじゃこら!こんなもん、ほってまえー!」※捨てちまえ

「お姉さん、人のもんやと思って好き放題言わんといてー!」


と、檄を飛ばしつつニギヤカに送り出しました。これが3月の話。

そして先日(4月中旬)百か日法要を終えて、ようやく納骨となりました。

私の実家の墓は、なんでか男の骨ばっかり入っております。女が強すぎる家系なんだろな。

この頃、私を悩ませていたのが前月に受けたマンモグラフィー検診で「要精検」の書類が返ってきたことです。

10年以上前に乳腺線維腺腫の手術をしてからというもの、毎回マンモグラフィーと同時にエコー検査の予約を取るのが習慣になっていましたので、予約は1か月前に取ってあったのですが。

想定内とはいえ、要精検の書類に書かれていた「石灰化」の文字を見たのは初めてのことです。「非浸潤性乳がんかもしれない」と身を竦めました。

エコー診による判定結果は、石灰化の他に嚢胞(乳腺に水が溜まったもの)が見受けられるので、半年置きのエコーと1年毎のマンモグラフィーによる「経過観察」となりました。

不安が拭えず、担当医に「石灰化については、マンモトーム生検(組織採取)を受けておいた方がいいでしょうか?」と訊ねましたが、現状の所見では必要ないでしょうとの回答でした。

痛みを伴う症状から、私に下された病名「乳腺症」を家に帰ってからネットで調べてみたら

老化現象。

の一言で片づけられていました。さよか。

天国の弟よ、
姉ちゃん負けないぞ。
おー!